まやたろの体当たり日記 Wanderlust

東京銀座のOL→山梨で農業と狩猟をはじめる→2016北米&南米自転車縦断→2017夏全国キャラバン→2019秋「なないろペダル」(出版舎ジグ)刊行!

10日間人と話さず、目も合わせない「ヴィパッサナー瞑想」で得たもの

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12月6日〜17日、10日間の修行を経てシャバに出てきた。

この1年半、ずっと動き続けていたので「静」の時間が必要だと感じてヴィパッサナー瞑想」にいってきたのである。

 

 

ヴィパッサナー瞑想とは?

ヴィパッサナー (Vipassana) は、物事をありのままに見る、という意味です。インドの最も古い瞑想法のひとつで、2500 年以上前にゴーダマ・ブッダによって再発見され、普遍的な問題を解決する普遍的な治療法、 生きる技として、多くの人に伝えられました。 宗教とはかかわりをもたないこの技は、あらゆる心の汚濁を取り除き、解脱という究極の幸福を目指しています。

ヴィパッサナーは、自己観察による自己変革の方法です。この瞑想法では、心と体が互いに影響を与えている深いレベルに焦点を当てます。体の感覚は、肉体の生命を形作り、同時に精神の生命と途切れることなく関わってそれを条件付けます。その身体感覚に注意を定めることで、心と体の相互作用を直接に体験することができるのです。この自己観察に基づく自己発見は、心と体の深いレベルまでたどっていくことで心の汚濁を取り除き、愛と慈悲に満ちた、バランスのとれた心へと導いてくれます。

思考や感情、判断力や感覚を管理する科学法則は、鮮明になります。自らの経験を通じて、生まれては消え去るという自然の特質、苦悩を生み出し苦悩から自由になるための方法を理解します。明確な気づきを得てまやかしが消えるとき、自らを律する力は増して、人生は安らぎに満ちたものとなるでしょう。

ヴィパッサナー瞑想: ヴィパッサナー瞑想について

 

わたしが行く前に聞いていたヴィパッサナー情報
  • 特定の宗教や宗派とはなんの関係もない瞑想法
  • 世界中にたくさんの瞑想センターがある
  • 日本では千葉と京都の2箇所
  • 参加費はなく、すべてボランティアと寄付で運営されている
  • 10日間人と目を話さず、目も合わせてはいけない
  • 10日間敷地から出られない
  • ケータイやパソコンなどの電子機器はすべて没収され、外部との連絡は一切取れない
  • 朝4時から夜の9時まで、食事と休憩時間以外ひたすら瞑想する(1日12時間!)
  • 読書や運動などは禁止(ヨガもだめ)
  • 食事はベジタリアン(けっこうおいしい)
  • 食事は午前中のみで夕食はない(痩せる)

 

これだけ聞くとめっちゃストイック…となるが、経験者の友人知人が口々に「人生観変わる」「一度は行ったほうがいい」などと褒め称えていて、行ってみたいと思いつつも、タイミングが合わなかったり、すでに満席だったりしてなかなか行けなかった。今回も10月末に申し込もうとした時点ですでにキャンセル待ちだったので、ダメ元で申込みしたところ、数日後に空席が出たとの連絡がきた。「これは行けってことなんだな」と思い申し込んだ。 

とはいえ、日が迫ってくるにつれてだんだん気が重くなり、「やっぱり行くのやめようかな…」「このわたしが1日10時間もじっとしてられるのか」「10日間ってあのボリビアの砂漠より長いぞ」「10日もあればあれもこれもできるし…」という思いが次々と頭をもたげ、行くかどうかギリギリまで迷った。でもここで怖気づいたらきっと一生行かないだろう、と嫌がる心を奮い立たせて臨んだ。

結論から言うと本当にいってよかったし、まだ行かれたことのない方には全力でおすすめしたい。

 

「瞑想法」と聞くとなにやら怪しげなかんじもするが、このヴィパッサナー瞑想のすごいところは、”「呼吸」や「感覚」という誰もがもっているものを「ありのままに観察する」ことを通して心の浄化を図る”、というすべての宗教・信条に関係なく受け入れられる普遍的な方法であること、そしてその純粋さを保つために参加費はすべてダーナ(寄付)で賄われており、指導者や運営スタッフも含めて一切金銭的な報酬は受け取らないということ。それゆえに人種や宗教、貧富の差に関係なく、誰でも恩恵を受けられる

現在世界中に200以上の瞑想センターがあり、これらがすべてボランティアと寄付だけでまわっている。これって本当にすごいことだと思うし、それだけ多くの人がこの方法に恩恵を受け、それを広めたいと思っているということなのだろう。

 

さて、前置きはこれぐらいにしておいて、この先はわたしの体験談になるのだが、ネタバレ要素も多分に含まれているのでこれから受けられるという方は読まないほうがいいかもしれない。この瞑想法の中で感じることは人それぞれだし、わたし自身なんの先入観もなしで行きたいと思っていたから。

 

それでも読みたい方は…あくまで一個人の体験談としてお読み下さい。

 

 

 
 0日目

コース初日。ギリギリまで行くことを躊躇っていたわたしは電車の乗り換えをミスり、予定していたバスに乗れず、バス停からセンターまでダッシュするはめになった。汗だくになりながらどうにか17時ギリギリに到着。誓約書を書き、受付をすませる。

「コースがはじまるまでの時間に他の参加者と何人か話しておくと瞑想期間中の気持ちの支えになるよ」という友人のアドバイスを受けていたのでそのようにした。これは本当によかったと思う。

夕飯(ダルスープとごはん)を食べ、いよいよコースが始まる。ここから10日めの朝までは「聖なる沈黙」の時間となり、他者とのコミュニケーションは許されない。

 

1−3日目

スケジュールはこのようになっている。

午前4時~4時30分:起床
午前4時30分~6時30分:瞑想
午前6時30分~8時:朝食と休憩
午前8時~9時:グループ瞑想
午前9時~11時:瞑想
午前11時~13時:昼食と休憩
午後1時~2時30分:瞑想
午後2時30分~3時30分:グループ瞑想
午後3時30分~5時:瞑想
午後5時~6時:ティータイムと休憩
午後6時~7時:グループ瞑想
午後7時~8時30分:講話
午後8時30分~9時:グループ瞑想
午後9時~9時30分:就寝

朝の4時半から瞑想がはじまる。暗くて寒くてなかなか布団から出られない。

最初の2日間はとにかくじっと座っているのが辛くて辛くて、こんなのが10日も続くのかと思うと気が狂いそうだった。座っても居眠りしてしまったり、他のことを考えたりしてしまってもう時間の無駄にしか思えなかった。

3日目ぐらいからようやく長時間座ることへの抵抗は薄らいでいった。とはいえ、瞑想に集中できているとは言い難く、頭はせわしなく常に他のことを考えていた。そしてこういうときに限ってなんかとてつもなく面白いアイデアが湧いてきたりして、そのことばかり考えてしまう。そうかと思えば今度はいろんな人の顔が次々と浮かんでは消える。家族や友人、昔の恋人、ずいぶん長いこと会っていない人、もう二度と会えない人。いろんな人達とのいろんな思い出がぽろぽろ出てくる。そして寝ても覚めても悪夢のようなイメージばかり浮かび、瞑想中に思わず絶叫しかけたこともある。

 

4ー9日目

はじめの3日半はアーナパーナ瞑想法という「呼吸」を観察する方法を学び、4日目からヴィパッサナー瞑想法という「感覚」を観察する方法を学ぶ。いずれも「今」「この瞬間」に起こっている「ありのままの現実」を捉え、それに対して反応せず、常に客観的に平静を保つためのトレーニング。だから例え足が痛くても、顔がかゆくてもそれに反応して足を動かせたり顔をかいたりすることなく、「右足に痛みを感じているな」「左頬にかゆみをかんじているな」という事実だけを認識する。すべては「今」に集中するため。それなのにわたしと来たら、過去や未来に思いを馳せてばかり。瞑想時間の終わりを知らせる鐘が鳴り響く度に、ああまたダメだった…と自己嫌悪に陥る。今日は集中できたぞ、と思っても翌日にはまたできなくなっていたり。一進一退の日々。しかしそれが自然の摂理。いい時もあれば悪い時もある。痛みがあれば気持ちよさもある。でも結局すべては移り変わっていく=”アニッチャー”なのだ。このことを知識だけでなく、自分の身体を通して理解していく。

  

ストイックな生活の中のひそかな楽しみ 

スケジュールを見るとわかるように休憩時間はわりと多いのだが、人と話すことも運動することもできないし、ケータイやパソコンはおろか、本を読むことも書くことすらできないのでとにかくやることがない。やることと言えば洗濯するか、空を眺めてゴロゴロするかぐらい。外部との連絡は遮断され、敷地からも出られない。まるで囚人になったような気分だった。

 

あまりの暇さに耐えかねて、敷地内の枯れ草を拾って縄を編んだ。編むのにはまってしまって気付いたら3mぐらいになっていた。編める枯れ草が尽きたので、冬いちごのツルを採取してカゴも編んだ。楽しすぎてニヤニヤが止まらない。

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そしてふと我に返る。…わたしは一体何をしに来たのだろう。草を編みに来たんじゃないんだぞ。

 

こんな生活の中での楽しみといったら食事につきる。野菜たっぷりのベジタリアン料理は、シンプルながらどれもとてもおいしかった。さらに調味料として塩・コショウ・醤油・みそ・ごま油・オリーブオイル・酢などの一通りのものがそろっているので、自分で味を変えて楽しむことができる。わたしは「味の大冒険」が好きなので常に新しい味を探求していた。最終日にはご褒美?のケーキまで用意されていて感激した。

正午以降は食べられないので基本的には朝昼の2食なのだけど、はじめての参加者は夕方に果物(リンゴ半分+キウイorみかん)とミルクの入ったお茶を飲むことが許される。お茶コーナーにはコーヒーや紅茶以外にも豆乳・牛乳・レモン汁・砂糖・しょうが・梅干しなどが用意されており、豆乳にレモン汁を加えてヨーグルト状にしたものにフルーツを入れて「フルーツヨーグルト風」にする技を発見。この世紀の大発見を他のみんなとも分かち合いたかったが、それを伝える術もなく、仕方なくひとりたのしんでいた。

 

そして食事の時間と並んで楽しみにしていたのは、夜の講話の時間である。ゴエンカ師のお話を日本語訳されたテープが流れるのだが、これが思いの外面白くて、かつためになるようなお話ばかりだった。わたしにとって90分近くも人の話を集中して聞きつづけることができるというのは奇跡に近い。それだけ面白かった。

その中でも特に印象に残った例え話がある。

 

あるインドの村で母親が息子をおつかいに出し、

10ルピーと空き瓶をわたして油を買ってくるように言いました。

男の子は帰り道に転んで油を半分こぼしてしまいました。

男の子は泣きながら帰ってきました。

「わ〜ん。油が半分こぼれちゃったよう。」

別の日に、母親は2番めの息子を同じようにおつかいに出しました。

この子もまた帰り道に転んで油を半分こぼしてしまうのですが、

今度はニコニコしながら帰ってきました。

「お母さん、転んだけど半分も残っていたよ。瓶も割れてない」

同じ現象が起きてもそれをどう捉えるか。一番目の子は悲観的、二番目の子は楽観的です。

 

この話を聞いてこれはまさにわたしと妹だな、と思った。

つい先日も家族で話していたときにふいに母親が子供の頃の話をしてきた。

母曰く、わたしはテストで95点をとっても「あと5点取れなかった」と悔しそうに言う。

対する妹は「見てみて〜!60点も取れた!」と喜んでいたという。

この話に出てくる1番めの子と二番目の子そのものだと思った。

 

そして実はこの話には続きがある。 

 

また別の日に、母親は3番めの息子をおつかいに出しました。

この子ももちろん転んで油を半分こぼし、2番めの子と同じようにニコニコしながら帰ってきました。そしてこの子は根っからの”ヴィパッサナーっ子”でした。

「転んだけど半分も残った。そうだ。これから夕方まで一生懸命働いて5ルピーを稼ごう。そしてまたこの瓶をいっぱいにしよう」

そう言って瓶を満タンにして帰ってきたのでした。

これがヴィパッサナー瞑想です。楽観的かつ現実的、問題解決的なのです。

 

実際わたしは今回の10日間、1日10時間という瞑想時間の中で、本当に自分が集中して瞑想できたな、と感じられたのは1割ほどであった。

以前のわたしなら「1割しかできなかった」と嘆くであろう。

しかしこれからのわたしはヴィパッサナーっ子(?)なのだから

「はじめてなのに1割もできた。伸びしろがある!」

そう思えるようになった。それだけでもこの10日間は本当に意味のある時間だったと言える。

 

禅問答ー 猟師は悪なのか?

ゴエンカ師のお話の大半はおもしろくてためになったり、うんうんと頷けるものばかりだったのだが、わたしの中でどうしてもひっかかったものが一つあった。

ヴィパッサナー瞑想では「殺生をしない」という戒律があり、特に10日の間は虫一匹殺してはいけないことになっているが、講話の中の「正しい行い」について言及する際に猟師の例えが出てくることがあった。

道徳に反する仕事の例として「核や原爆を扱う仕事」と並んで「猟師やお肉を扱う仕事」が挙げられていたり、正しくない集中力の使い方の例として「猟師がライフルで獲物を狙うときの集中力」と「盗人がポケットから財布を抜き取るときの集中食」が同列に扱われていて、それがどうしてもわたしには気になってしまった。

そこで指導者の方にこのような質問をした。

「わたしは自分の食べるものはなるべく自分で作りたいと思っていて、田んぼや畑をやっていました。普段はお肉も食べるので狩猟もしていました。昨日の講話の中で、猟師や畜肉産業が、盗人や核や原爆を扱う職業と同列に扱われていたのがどうもひっかかってしまったのです。たしかにわたしの知る猟師さんの中にも、狩猟をただの娯楽としてやっている方もいます。でもその一方で、獲った獲物に感謝と敬意を払い、余さず食べる・使うことをしている方もいます。そもそもわたしたち生物は、それが動物であれ植物であれ、何かの命をいただかないと生きていけないわけで、野菜やお米だけを食べていたとしても、それを作る過程ではいろんな動物の命を犠牲にしているわけですし、植物だから無駄にしてもいいというのは違うように思います。大事なのはいただいた命をどう扱うかという気持ちの方なのではないのでしょうか。」

 

正直わたしは指導者の方々は「ゴエンカ師」の教えをそのまま受け売りし、納得できるような回答は得られないのではないかという先入観があった。しかし指導者の方の回答は素晴らしいものだった。

 

「おっしゃるとおりだと思います。ゴエンカ師もこのあとの講話で”お金を奪うためにお腹を切った強盗”と”病気から助けるためにお腹を切った医師”の話をします。大切なのは行為でなく、心です。そしてわたしたちはこの近くに住んでいて、イノシシがたくさん出るのですが、普段安全に暮らしていられるのも猟師さんがイノシシを獲ってくれているからです。また、無農薬のお米や野菜を食べられるのも、農家さんが虫を一匹一匹つぶして取ってくれているからです。だからお米や野菜を食べているから自分は殺生に加担していないなどと考えるのはおこがましいことです。実際わたしもはじめの頃は瞑想をしながらお肉や魚も食べていました。ところがある日、魚をさばけなくなったのです。なぜかというと、蚊を叩こうとした時に自分の中に強い「殺意」があり、それが大きな痛みを生んでいることに気付いたからです。だからわたしは出来る限りそうでない選択をしようと思ったのです。」

 

わたしは感動した。何よりも指導者の方が自分の言葉で話してくださったことがとても嬉しかった。そしてわたしもまた、自分の手で鹿の命を奪う時、常に大きな葛藤があり、非常に強い痛みを伴っているということを思い出した。だからこの先自分がそのような行為にいたるのかということについては、改めて考えたいと思う。

 

 

そうして日々はゆっくりと静かに、しかし確実に過ぎていき、気付けば最終日を迎えたのであった。

10日目

10日目の朝に「聖なる沈黙」が解かれ、おしゃべりが許可される。今まで9日間ずっと一緒にいたのに全く周りの人達のことを知らない不思議さ。それまで自分が勝手に作り上げたその人の「イメージ」と、実際に喋ってみた印象が大きく異なることに気づく。ちょっとしたことでイラッとしたりしていたけど、話してみたらめっちゃいいやつやん、みたいなのばかり。よく知りもしない人に対して勝手に好き嫌いを判断してしまったなと反省。

10日間の間に話したいことは山のようにあったので話しても話しても話し足りない。そもそもこのコースに参加するような変人(褒め言葉)であり、しかもこの時期に12日間も休みを取れるなんて相当の自由人だろう。会社をやめて起業した人、2日前に大学をやめてきた人、陶芸家、ダンサー、占い師、などなどめちゃくちゃおもしろい人ばかりが集まっていた。イスラエル人、香港人、オランダ人、ベトナム人など人種もさまざま。彼らとの出会いは本当に大きな収穫であった。

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ここに来て本当によかった。10日前、あれほど重かった心はなんだか軽くなっていた。

これから日々の暮らしに取り入れていこう、そして次は大切な人を連れて、奉仕者として帰ってこよう、そう心に誓ったのだった。

 

ヴィパッサナー瞑想: 日本

 

 

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