公園には鳥居があり、スーパーに行けば納豆や味噌があり、ラーメン屋やスナックがあり、日本語が飛び交う。写真だけ見ればまさかここがパラグアイだとは思わないだろう。
ブラジルとの国境から40kmにあるイグアス移住区。50年ほど前にジャングルを切り拓いて作ったこの場所は、南米で一番新しい移住地で、現在は人口の約8%にあたる800人近くの日系人が住んでいる。
ここで生まれ育った日系人は日本語、スペイン語はもちろん、ポルトガル語、そして先住民の言葉であるグアラニー語の4カ国語を操る人までいる。バイリンガルどころの騒ぎではない。お世話になっているオサムさんもそのひとり。
早速オサムさんに案内していただいて近所の方のお宅に竹伐りに。
オサムさんに教えてもらったウェンベという植物。先住民の人たちはこの蔓や根の表皮を剥いで、竹かごに編み込むらしい。
これが先住民の作る竹かご。茶色いのがウェンベ。
こちらの竹は株立ちしているバンブー系のものがほとんど。
竹を伐らせてもらうついでにたけのこもいただく。
アク抜きしてからサラダに。酢とオレガノと塩胡椒でサラダに。味は日本のタケノコと同様にとっても美味。
サボテンってこんなに大きくなるのね。これで40年らしい。
アボカドが食べ放題!
見たことのない果物も!!
オウムがかわいすぎた。
2週間お世話になったお礼に洗濯カゴなどを作る。
オサムさんの紹介でデイサービスにきていた奥様方と竹細工をした。90歳近くになる方もいると聞いて、できるかどうか心配だったが、それは杞憂におわり、ジャングルを切り拓いてきたみなさんとっても元気で積極的なツワモノ揃いでした。
最初の移民がパラグアイにやってきたのは1936年。戦後にはアジアからの引き上げ者や復員軍人など1000万人超の余剰人口を抱えた日本は、本格的な海外移住政策をとり、1959年にパラグアイとの間に移民協定を結び、以後30年間に日本から8万5千人の移民を受け入れることが決まった。(この協定は今も有効であるため、日本人ならほぼ誰でも永住権を取得できる。)
今のようにインターネットもなく、情報も入ってこなかった時代。手狭な日本を出て“マッチ一本で(原始林を焼き払えば)いくらでも農地が手に入る”という謳い文句に乗せられて、夢や希望を抱いてやってきた移民たち。
わたしは飛行機で、しかもたった一年旅に出るだけでも夜も眠れないぐらい不安に襲われたのに、二度と会えなくなるかもしれない家族の元を離れ、まだ見ぬ新天地に約3ヶ月もかけて船で移住してきた人たちは、一体どんな想いだったのだろう。
実際に彼らを待っていたのは、原始林を斧や大鋸で切り倒す過酷な開拓作業。
資料館には当時の様子がわかる写真や日本から持ってきた道具などが展示されている。
竹細工の合間にも開拓当時のお話をお聞きした。
「お父さんと弟が大きなのこぎりで丸太から板をひいて、それで家を建てたのよ。わたしはマチェッテで小さい木を切り倒して、トウモロコシやマンディオカを育てたわ。移動には馬を使っていたのよ。」
「ジャガーとかワニとかカピバラとか、食べられるものはなんでも食べたよ。」
と一世の人たちは振り返る。きっと当時は大変だったのだろうけど、懐かしそうに振り返るその表情は、苦労を乗り越えたあとの喜びと誇りに満ちていた。
家では日本語を話し、日本語の学校を創り、毎週のように野球やサッカーなど、日系人の大会が行われる。味噌、豆腐、漬物、梅干しなど、なんでも自分たちで作る(というよりもそうしなければ手に入らないから作らざるをえない)。
日本に住む日本人以上に日本の文化、そして日系人同士のつながりを大事にしている。それは過酷な環境を乗り越え、日本人としてのアイデンティティを守っていく上で必然だったのだろう。 日本人はどこへ行っても日本人なのだと思うのであった。