まやたろの体当たり日記 Wanderlust

東京銀座のOL→山梨で農業と狩猟をはじめる→2016北米&南米自転車縦断→2017夏全国キャラバン→2019秋「なないろペダル」(出版舎ジグ)刊行!

森の中のアシュラム

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ゴアからラジャスタンまで21時間に及ぶ列車に揺られながらこれを書いている。 あの日から9年。日本時刻に合わせて静かに黙祷をした。 未だ解決していないたくさんの問題を抱えながらも、次々浮上する新しい問題に追われているうちにいつしか時は流れてしまった。いろいろと思うところはあるけれど、とにかく「種を蒔き、繋げねば」と強く思った。

アシュラムへ

さて、パンチャカルマを終えてからも最低一週間程度はゆったりしたほうがいい、と言われたので病院から2時間ほどいった森の中のアシュラムで過ごすことにした。

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朝晩マントラを唱え、ヨガをし、一日二食、ビーガンかつ玉ねぎやニンニクなどの五葷も使わないヘルシーでおいしい食事をいただく。

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カルマヨガと呼ばれる奉仕活動もあり、わたしは池の掃除を担当した。でもスワミジ曰く、カルマヨガの一時間だけするのではなくて、人生そのものがカルマヨガなのだと。誰が見ていなくとも関係ない。そうだよな、と自分の汚部屋を思い出しながら苦笑い。地球をきれいにするのも、自分の部屋をきれいにするのも、他の誰でもなく自分のため。

新月から11日目の日は月と太陽の重力の影響が最も小さくなるそうで、瞑想や断食に向いているという。この日の夜は300ページ近くあるギータをみんなで3時間かけて詠み上げた。

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すべて手放した先に残るもの

ちょうど指導者養成コースの最中で、わたしも他の生徒に紛れ込んでいくつか講義を受けさせてもらった。特に面白かったのはエゴとカルマの話。そして物質的なモノも、感情も、過去も未来もすべて手放すこと。これまでも何度も聞いてきた話だけど、わたしはずっと疑問に思っていたことをいま一度ゴパルジに尋ねた。

「感情もすべて手放すことというのは何も感じないってこと?それってhappinessも手放すことになるんじゃないの?」

その問いに対して彼は明快な答えを示してくれた。

「happinessというのは太陽みたいなもので、いつもそこにあるんだ。でも他の感情があると雲がかかって見えない。だからそれを取り除いてあげれば常にhappinessの状態なんだよ」と。

今まで誰に聞いても腑に落ちなかったことがスッキリした瞬間で、まさに雲がとれた気分だった。 とはいえそれを実践するのはなかなか難しいのだけれど…

ついつい感情的になってしまうのは当事者になるからだ。そして相手が身内ならなおさら。いつも一歩引いた客観的な視点で見られるようにしよう。 少しずつ、少しずつ。

例えばアカの他人が100万円をなくしたり、重い病気に侵されたとして、同情はしても自分には影響がないから冷静でいられる。でもそれが自分、あるいは身内に起こったらどうか?それを同じように冷静に受け止められるか?

そもそもこの身体も借り物であってわたしのものではない。「わたしの〇〇」もなければ、そもそも「わたし」すらない。 ゴパルジ曰く、かのラマナ・マハラシは、一人称を使わず「ラマナはお腹が空きました」と三人称で話すことで自分の身体と自意識とを切り離していたのだという。彼はガンになっても身体に執着していなかったので痛みを痛みと感じなかったそうだ。そして彼のような高僧でもガンに侵されてしまうのは前世のカルマなのだと。

I am enough

わたしは正直なところ今までスピリチュアルや宗教的な世界をどこか訝しげに見ていたところがあると思う。前世とかカルマとか神とか、よくわからなかった。でもインドに来て、彼らの暮らしの中に当たり前にあるそれらの存在に、いつしか魅了された。インドの神々や神話はどれもぶっ飛んでいて面白い。 パンチャカルマを受けていた時、ドクターに「コロナウィルスに対して何が効果的ですか?」と尋ねたときも「agni hotriという火の儀式が浄化にとてもいい」と言っていたし、精神的に不安定になっていた時「あなたの信仰は?」と聞かれて、特にないと答えると「別に何かを信仰する必要はないけど、何かあったときに心の拠り所となるものがあるのとないのとでは違うわよ」と言われてなるほどと思ったた。

結局信じられるかどうかなのだ。 わたしの心がいつもどこかふわふわと漂って落ち着かないのは、自分を信じきれないからなのだろう。だから周りのせいにして、環境のせいにして、いつも自分の外側に何かを求めようとしてきた。もうそろそろそこを脱しよう。自分が自分を愛してあげなくて一体誰が愛してくれるのか。

I am enough.

わたしはすでに満ち足りている。

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